この矢はづさせ給ふな

八百数十年の昔、ここ高松は屋島の地で源氏と平家が合戦した。
平家物語に語られる、那須与一が扇の的を見事に射落とす場面はあまりにも有名であり、これをモチーフとしたイメージは、絵画や観光ポスター、商業デザイン、橋の欄干やマンホールのふたにまで描かれている。源平合戦屋島の戦いを象徴するイメージと言ってもよいだろう。
そうした「カッコいい」イメージはさておき、戦さのために東国からはるばるやってきた与一の目に、この屋島はどのように映り、記憶されたのだろう?

平家物語によると、源氏軍の大将である義経から「あの扇を射抜いてやれ」との命を受けた与一は、「必ず射落とせる自信がありません」という理由で当初これを辞退する。
だが義経に「俺の命令が聞けんとはなにごとか」と叱られて与一は、覚悟を決める。

扇までの距離は六十から七十メートルほどであったという。しかも扇の的を掲げた小舟は波間に揺れている。
これを一発で射落とさねばならぬ。
海上には船に乗った平家軍、陸には馬に乗った源氏軍の大観衆に取り囲まれた与一は、まだ二十歳ばかりの若武者なのであった。

与一目を塞いで、「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光の権現・宇都の宮・那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させて給(た)ばせ給へ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人にふたたび面(おもて)を向かふべからず。今一度、本国へ帰さんと思し召さば、この矢はづさせ給ふな」と、心の中に祈念して、目を見開いたれば、風も少し弱って、扇も射よげにこそなりたりけれ。

与一鏑(かぶら)を取ってつがひ、よつ引いてひやうと放つ。

平家物語より抜粋